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1960年代に普及し始めた「スパイクタイヤ」は、1985年には冬用タイヤの68%を占め、販売のピークを迎えた。しかし、その一方で、スパイクタイヤ(※1)の鋲(びょう)によってアスファルトの路面が削られる「粉塵(ふんじん)公害」も浮上してきたのである。

特に仙台や札幌など市街地での被害が大きく、冬を越すたびに道路の修理が必要になり、雪融けの頃の札幌市街は、アスファルトの粉が舞いマスクなしでは歩けない程であった。「粉塵(ふんじん)公害」は、地方の財政も人々の健康も圧迫した。
山間部のユーザーからは、スパイクタイヤ存続が強く望まれたが、1991年3月、とうとうスパイクタイヤ(※1)は販売中止となった。

スパイクタイヤ禁止の流れを受け、行政は“凍らない道路の整備”を、タイヤメーカーは“アスファルトを削らない冬用タイヤの開発”を求められ、各社はこぞって開発に取り組んだ。
こうして1980年代後半に初めて誕生したのが、アスファルトを削らない冬用タイヤ「スタッドレス(鋲のない)タイヤ」である。しかし、命を預けるタイヤだけにユーザーのスタッドレスに対する要求は高く、スタッドレス誕生後も技術者たちの不断の努力は続く。

冬の路面を再現するテストコース(※2)もない厳しい環境の中、【TOYO TIRES】のスタッドレス開発を任されたのが、タイヤ材料開発部 ゴム材料開発グループに配属されていた25歳の若手技術者、磯部だった。

新しいゴムの配合を考えても、十分な環境も蓄積されたノウハウもない。岐阜県瑞浪の野外スケートリンクや、-20℃にまで冷え込む冬の北海道の通行止めになった山道で実験をおこなった。
スタッドレス試験機を作ったものの、外気の影響を受けやすく試験にならない。急遽プレハブで外気を遮断して試験室を作った。氷を作っては、テストを繰り返す日々が始まった。

当初、磯部は時間をかけて凍らせた純度の高い氷を作り、実験に使用していた。ところが、思うような結果が得られない。なぜだ…氷について昼夜考え続けた磯部は、ふと思い立った。
現場の氷を見なければ!実際にクルマが走る氷の状態を知らずに、その氷を制するタイヤが作れるはずもない。

早速、札幌へ発った。北海道大学低温科学研究所。そこには、-5℃の部屋から-50℃の部屋まで、様々な環境があった。札幌の路面の氷をとって来ては研究所で分析を重ねたところ、路面の氷は急激に冷やされてできるため、気泡が多いことがわかった。つまり、実験で用いていた氷では純度が高すぎたのである。

氷を手づかみで取ろうとして、手にぴったりとくっついてしまった経験はないだろうか。このように、氷は溶けていなければ滑らない。つまり、氷が滑るのは間にできる水のせいなのである。
磯部は、スタッドレスの開発に携わった1985年から、氷と路面の間にできる水の膜を取り除く研究を続けていた。
しかし『吸水(※3)』だけでは、限界がある。

道路の氷に気泡があるということからヒントを得た磯部は、タイヤのゴムにひっかき素材を入れてはどうかと考えた。
『アスファルトを削らないタイヤ』という命題は、譲れない。しかし『アスファルトを削らず、氷を削るタイヤ』ではどうか。こう考え、氷を制するためには『吸水(※3)』に加え『密着』と『ひっかき』がポイントであるという結論に達した。

しかし、氷に密着するにはどうすれば良いのか。それが、問題だった。頭を抱える磯部に上司だった材料部長が言った。「白クマは、なんで氷の上で滑らんのか見て来い。」

磯部は動物園に行き、飼育係に尋ねた。飼育係は、遠目に白クマの手の裏を見せてくれた。白クマの手の裏側には、細かい毛が生えているのだという。
「なるほど、毛か…。」早速、水鳥の羽毛にブタの毛…と様々なものを試してみたところ、意外にも、レザーパウダーと呼ばれる牛の皮を細かくしたものに密着効果があることがわかった。

密着の次は、ひっかきである。路面の氷とタイヤの間にできる水膜を突き破って、氷に刺さる素材。ゴムに配合するためには、0.1ミリの粉状にしなければならない。
ここでも磯部は、様々な素材を試した。魚屋でホタテ貝を買って来て、貝殻を削った。樫の木を切って来て、チーム全員で削ったこともあった。

中でもひっかき効果が高かったのは、アルミナというアルミの酸化物であったが、氷ばかりかアスファルトをも削ってしまった。これでは、『アスファルトを削らないタイヤ』という命題をクリアできない。
また、椰子の種も比較的ひっかき効果が高かったが、そんなに大量の椰子の種をどこから供給するのかという問題に阻まれ、南国スタッドレスは幻と消えた。

環境にやさしく、ひっかき効果があり、0.1ミリにまで粉砕できて、安定した供給のある素材とは…。研究に行き詰った磯部にヒントを与えたのは、当時の購買担当者がくれたアドバイスだった。
直接スタッドレスを開発するわけではないが、技術者とは一味違った購買担当者ならではの一言、それは…。

「精密機械の研磨材として使われるクルミの殻は、どうか。」1988年、スタッドレスとクルミが出会った瞬間だった。クルミの殻は、精密機械や眼鏡の縁などの研磨材として使われているため、安定した供給が見込める。購買担当ならではのアドバイスだった。

実験の日、磯部は固唾を呑んで計測器を見つめた。時折、針が大きく振れた。クルミの殻には、ひっかき効果があったのだ!また、クルミは氷より硬いがアスファルトよりも柔らかいため、環境にやさしい。これこそ、磯部が求めていた素材であった。

しかし、磯部を待ち受けていたのは、更なる難関だった。タイヤに異物を入れる、しかもクルミの殻を入れるとは…。工場でゴムを混ぜるのは、精練課である。彼らは、皆渋い顔をした。
前例がないというだけではない。一度クルミを入れた混合機(※2)は、きれいに掃除をしないと次のタイヤのゴムを入れられないため、効率が悪いのだ。

クルミのひっかき効果を確信していた磯部は、担当者を説得し、通常の生産ラインの合間を縫ってゴムの混合を試みた。研磨材でもあるクルミは、混合機の内部まで削ってしまう恐れがあるため、ゴムにクルミを投入するタイミングが決め手となった。
当初は、クルミ入りゴムに半信半疑だった担当者たちも、時には明け方まで混合を続ける磯部の熱意が伝播したのか、しだいに積極的に取り組むようになった。
混合工程の作業標準が見直され、いよいよタイヤの生産が開始された。

こうして1991年9月、クルミの殻を配合した新しいスタッドレスタイヤ「オブザーブX9」が誕生したのである。
「オブザーブX9」は、新技術を用いたスタッドレスとして業界の注目を浴びただけでなく、ユーザーの評価も上々であった。

磯部は語る。「やったぞ!非常に良いものができた!という自信と達成感がありました。しかし一方で、タイヤは人の命を乗せて走るものですから、まだまだ性能を上げなければ!という使命感もありました。そしてそれは、材料開発を離れた今も同じ気持ちです。」

2003年11月現在、磯部は本社で購買を担当している。タイヤの開発には関わっていないが、その昔、購買担当者が磯部にクルミというヒントを与えたように、今度は磯部が誰かにヒントを与える番なのかもしれない。

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